2009/12/31

Nautilus、ご訪問

もう10日前ほどになってしまって亀の歩みのごとしなんだが、オーディオの先輩方々に誘ってもらって、私の素敵な奥様に快く送り出されて、右の写真のスピーカをメインにしている方の家を訪問した。B&Wの”Nautilus"(ノーチラス、オウム貝)というそのまんまの名前の超弩級スピーカである。
20畳以上はあると思われるマンションのリビングルームにセットされたNautilusは自然に収まっていたが、壁には各種音響ボードが張り巡らせられており、実はスピーカとの格闘の後を思わせ、結構手強いスピーカなのかも知れない。
訪問初心者という立場にかまかけて厚かましくも特等席を占めていろいろお聞かせいただいたのだが、スピーカからの音離れがよく、スピーカを意識させず、スムーズ感満載でとても良いスピーカであることがよくわかった。持参したCDは家で良く鳴っているものだったが、録音レベルが低いせいなのか何故かこのCDだけ密度感が感じられなかった。逆にうちのシステムの音にはそういう密度感を出すクセというか「熱」があるのかな。駄耳ではこれ以上はわからない。
大阪からはるばるやってきた先輩の手ほどきでPCオーディオの実力も、ソフトによる差(iTunesはイマイチとか)もはっきりわかったのは収穫であった。

これは他の先輩方へも会うたびに同じように強く感じるのが、自分のよいと思われるもの、好きなもの、信じるものに突き進んでいく姿勢に感銘を受ける。

2009/12/21

(早すぎる|遅すぎる)最適化

姪っ子の進路方針を聞いたのをきっかけに下のようなことを考えた。
  • 早すぎる最適化はその後の環境の変化についていけない (それしかできないのにそういう仕事が無くなって、かといって後戻りもできない)
  • 遅すぎる最適化はそもそも自然淘汰で生き残れない (競争に勝てるだけの業を持ってない)
古代から現代まで綿々と続く商売というのはないもので(いや、あるにはあるが)、環境の変化についていけるような土台作りが必要かなと思う。
姪っ子には自分で決めた進路なのだからやれるだけやってみろぐらいしか言えないような気がするが。

ほぼ5年前の川合史郎さんが訳したポール・グラハムの高校生に向けた(キャンセルされた)講演原稿を思い出した。
知っておきたかったこと--- What You'll Wish You'd Known
それでも毎年5月になると、全国津々浦々の卒業式で決まりきった演説が聞かれることになる。テーマはこうだ。「夢をあきらめるな。」ぼくはその真意を知っているけれど、この表現は良いものじゃない。だって、早いうちに計画を立ててそれに縛られることを暗示しているからね。コンピュータの世界では、これに名前までついている。「早すぎる最適化」というんだ。別の言葉で言い替えると「大失敗」ということだ。演説ではもっと単純にこう言うべきだろうね。「あきらめるな。」
もうひとつ引用する。「泥庭が井戸に」
子供は好奇心旺盛だ。ただ、ぼくがここで言っている好奇心は 子供のとはちょっと違う。子供の好奇心は広くて浅い。 ランダムに色々なことについて「どうして?」と尋ねる。 多くの人は、大人になるまでにこの好奇心が全部渇いてしまう。 これは仕方無いことだ。だって何についても「なぜ?」と尋ねていたら 何もできないからね。でも野心を持つ大人では、 好奇心は全部渇いてしまうのではなく、狭く深くなってゆくんだ。 泥の庭が井戸になるんだ。

2009/12/19

「スーパーエンジニアへの道」G. M. ワインバーグ著

モノレールでの通勤時は読書タイムである。手持ちの本が尽きたので棚の奥から久しぶりに取り出して読んでみた。今の仕事と重なる部分がある事に気づいて3回も読み返してしまった。技術者でなくても職業としての仕事に限らず家庭でも友人でも隣近所でもサークルでも何でも他人と協力して何かをやる事がある人は読んで損はない、というか読むべきである。

買ったのはいつだったのだろう?
1990年頃に買った「ライト、ついてますか?」は軽い本だが、読み通した後はボディブローのように効いていて、紛れもなく私の考え方に影響を与えた本である。その結果、著者の本を見つけては1冊づつ買い求めていくようになった。
手元にある本書は、1992年3月1日初版15刷発行とあるから、「ライト、ついてますか?」から2年後、就職した前後に手に入れたらしい。その頃の読んだ印象は特に残っていなかった。「ライト、ついてますか?」は今でも覚えていることが多いというのにだ。だからといって本書が凡庸な本かというとそうではない。著者が本書でデイル・カーネギー の「人を動かす」の価値に気付くのに40年もかかったと明かしたように、「私の中で何かが変わ」ってようやく読むのに適した時期を迎えたのかもしれない。

原題は"Becoming a Technical Leader ---An Organic Problem Solving Approach"である。邦題は意訳であることが「訳者まえがき」に書かれてある。技術リーダになること---有機的問題解決アプローチ、が原題の直訳で、本書のテーマでもあるが、テクニカルな話題はあることはあるが思いのほか少ない。リーダー(他人をリードするのではなく、プロセスをリードする人)としての考え方、ものの見方、捉え方、感じ方、をスケッチし、読者に提示する。そのリーダーのリーダーシップとは以下の文章に集約されている。
「アメとムチ」モデルでは、リーダーシップとは他人をリードすることである。一方有機的リーダーシップは、プロセスをリードする。他人をリードできるためには、その他人が自分自身の生き方を支配するのを、あきらめてくれなければならない。一方プロセスをリードするとは、人に反応して行動し、彼らに選択をゆだね、彼らに自分自身を支配させることである。人々はちょうど庭師がタネに力を与えるのと同じやり方で力を与えられる。すなわち、成長せよと強制する代わりに、彼らのうちに眠っている力を汲み出すのである。
(p.12 第一章 リーダシップとは、結局のところ何なのか)
気になるフレーズを抜き出しておく。
リーダーシップとは、人々が力を付与されるような環境を作り出すプロセスである。
(略)
だがアーニーやフィリスやウェーバーも、驚くべき形式でリーダーシップを発揮していたのだった。彼らはマーサが、彼女にとって強力であるようなスタイルで働くのを放っておいたのである。(略) しゃべることはマーサのスタイルではなかった。そして他の連中はそのことを知っていた。だから彼らは彼女を放っておいた。これもリーダーシップなのだ。
(p.12 第一章 リーダシップとは、結局のところ何なのか)
様式はいろいろであるものの、問題解決型のリーダーに共通に備わっているものが一つある。それは、もっとよいやり方は必ずある、という信仰である。
(p.22 第二章 リーダーシップ様式に関するモデル)
そういうわけだから、バージニア・サティアがすべてのコミュニケーションの九〇パーセントは不整合である(つまりわれわれが本当に伝えたいこととと合っていない)と見積もっているのは驚くべき事ではない。
(p.117 第一〇章 人に動機づけを与えることについての、第一の大障害)
複雑な環境では、もっとも強く仕事優先を信じているリーダーすら、人を優先せざるを得ない。そうしなければ、仕事が終わらないからだ。
(p.127 第一一章 人に動機づけを与えることについての、第二の大障害)
私はいつも、みんなを助けなければならない
(略)
私はいつでも、(その気になれば)みんなを助けることができる
(略)
私はときには、(その気になれば)みんなを助けることができる
(略)
私はときには、(その気になれば)ほかの人を助けられることもある
(略)
私はほかの人を、
彼らが明確に助力を求めた場合や、
私が彼らを助けるために技能を持っている場合や、
私が彼らを助けるための資源を持っている場合や、
私が彼らを助けるという任務に適している場合や、
私が彼らを助けようと思う場合や、
私が助けそこなったときにその失敗を許容できる場合には
助けることができる
(p.149 第一三章 動機づけのできる人になるには)
「あなたがお腹の中ではにこにこしているのに、しかめっ面をするのが自然だと考えるのは何のせいなんでしょうね。」
「私は自然でなければならないからですよ」と私は答えた。「私は自発的にそうするんです。」
「あなたは英語を自発的に話すけれど、でもそれは習ったことなんでしょう?
私、あなたは顔をしかめることも習ったんだと思うわ。あなたは『習った』ことと『人生の早い時期に、それと気づかずに習った』ことを、ごっちゃにしているのよ。じつはあなたが習ったことは不自然だったの。だって自然なのは、お腹の中で本当に起こっていることをそとに示すことによって整合性を持つことですものね。」
(p.169 第一五章 力、不完全性、整合性)
組織作りとは命令することでも命令を受けることでもない。仕事を片付けることである。
(p.202 第一八章 有効な組織作りへの障害は?)
ほかにもいろいろあり、それぞれに言及していくとそれだけで本ができてしまう。

この記事を書いた後、ワインバーグで検索していたら、こんなページを見つけた。
Gerald Weinberg(ワインバーグ)氏との思い出:An Agile Way:ITmedia オルタナティブ・ブログ
進行性の癌であるとのこと。
以前書いた 「ワインバーグの文章読本」G. M. ワインバーグ著という記事に「G.M.ワインバーグ先生自身の不幸に感じていた幼年時代の今までにない記述あり。自身の歴史を振り返っているのか。老年期?」と書いたのだが、あながち間違いでもなかったが、ちょっと複雑な気分である。
私の生き方指南の師匠の一人(と勝手にこっちで思ってる)といっても過言ではないのでどうか元気でいて欲しい。

2009/12/10

エアー, V-3

オーディオシステムご紹介でご紹介したAyre Acoustics社のパワーアンプである。Ayre社のデビュー作であり出世作でもある。

2000年、まだ東京在住中のある日、秋葉原の中古オーディオショップを覗くと、目の高さの陳列棚に他の中古機器に混ざってV-3が鎮座していた。いいアンプだと噂は聞いていたが見たことはなかった。もしかしたら格安で手に入るチャンスかも知れない、しかし、聴いてみないことにはなぁ、中古販売の店で貸し出しは聞いたことがないけどなぁ、と3秒ほど逡巡した。で、中堅どころの店員に思い切って聞いてみた。「これ自宅で聴いてみたいんですけど、借りられますかね?」
その時はすでにPASSのAleph 3をP MK IIとコンビで導入済みだったので、慌てる必要はなかったが、ウニのようなAleph 3と違って清々しいデザインでもあるし、傾向が異なるパワーアンプというのも聴いてみたかった。駄目なら返せばいいし。
店員はちょっとびっくりしたような表情を見せたが、たぶん、1,2秒くらいだと思うが、私を値踏みし答えた。「いいですよ。」 聴けばこのお客はきっと買うと踏んだのかな。
その後は、借用期間はこちらの希望で2週間、送料はあちらの希望でこちら持ちとし、送付先を伝え発送をお願いした。

2000年といえば1号(♂9才)が生まれた年で、秋葉原に一人で行ったりする暇は無かったはずなのにどうしたことか、と思い出してみると、私の素敵な奥様が育児の勉強と自動車免許の取得を兼ねて1号と帰省していた頃だったんだなと合点した。束の間の独身時代復活みたいな。

しばらくすると、V-3が届いた。早速Aleph 3と交換して聴いてみる。うーん、あまり差はないなぁ、定価ベースだとV-3が2倍ほど高いし、これは買うまでもないかなというのが最初の3日間の感想。これで評判がいいというのはおかしいのではないか、とも思った。 ふと、V-3はバランス接続がいいというのをどこかで読んだのを思い出した。Aleph 3はアンバランス接続で、我が家にバランスケーブルの類はない。借用しているのをそのまま返すのももったいないし、勉強代だと思い、仕事帰りに新宿のヨドバシで、ベルデンのバランスケーブルを注文した。ベルデンは可もなく不可もなくという印象があってその代わり個性も控えめという観点で適任だと思った。で受注生産で1週間待ち。なんとか借用期間の最後の3日に間に合った。仕事帰りに受け取り早速Aleph P MK IIとV-3間をバランス接続してみる。するとどうだ。一聴してわかる躍動感と音場の広さ。これだ、これこれ、Aleph 3とは全然違う。これはもう返せない。3日間楽しく音楽を聴いて、店員に電話する「買うことにしました」。貸し出すことを決断した店員のリスクを考えると感謝の気持ちも湧いてくる。双方ハッピーである。Aleph 3はそのまま下取りとしてもらった。

V-3は故障しやすいとの噂もあったが、我が家の個体は故障知らず。電源のアースを取っているのがいいのではないかと思っているのだが、これは実験するわけにもいかないので推測の範囲である。ただ、今の家に越してきてからスイッチを入れるとハム音がブーンと小さく唸っているのが気になる。設置環境か電源系の接続の問題と思うが未だ解決に至らない。(2011/11/27追記:解決しました)
躍動感と音場がキモのアンプだと思うが、最低帯域(超低音)は制御しきれていないような印象もちょっとある。といっても大音量時の話である。今のスピーカでは全然わからないが、前のスピーカは密閉型で下までのびていたのでそう感じた。でも印象の問題かも。

少し熱いのが難点だし(寒くなった最近は猫が天板に乗って寝る)、そろそろ点検してもらわないといけないような気もする。スイッチを入れても何かが光るわけでもなく、稼働する部分もない。そうは言ってもV-3の出す音が実は我が家の軸でありシステムの中心的存在かも知れない。まさに縁の下の力持ちである。

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