2015/06/24

父の「半永住」者としての「在留許可証明書」

父の遺品の整理 ー というより「処分」の方が適切 ー を行っていたところ、パスポート、米軍基地入構パス、予防接種証明書(沖縄への出入りに必要だった?)などに混じって、「在留許可証明書」(RESIDENCE CERTIFICATE)なるものが出てきた(1枚目の画像、カギは大きさ比較用)。
なんだこれ?
ググっても中々たどり着けないので 、2枚目の画像の右下にある「出入管理部長」の印にある「並里亀蔵」でググると、沖縄県公文書館の紀要にぶち当たった。
「米国統治期における在沖奄美住民の法的処遇について —琉球政府出入管理庁文書を中心として—」
(土井智義、沖縄県公文書館研究紀要 第16号 2014年3月) (PDF)
奄美諸島から復帰前の沖縄へ移住してきた人々の「米国統治期の「琉球列島」における在沖奄美住民の法的処遇に焦点をあてて」いて面白い。
父親が沖縄に渡ってきた時代背景に関して、奄美諸島出身者にまとわりつく制度があったなんてまるで知らなかった。

この論文を読むと、戦後の沖縄では、「米軍要員」「琉球人」「非琉球人」の3種の人間が制度的に区別されていたようだ。
「米軍要員」とは「米軍兵およびその軍属」のことである(のちに米国籍を持つ者に変更された)。
「非琉球人」とは次の説明がある。
「非琉球人」とは、米国統治期(1945-1972)の「琉球列島」において、指紋押捺や在留登録等が義務づけられるなど差別的と言いうる厳格な人身掌握の措置によって、「外国人」として管理された 人びとを指す行政用語である。 (p.12)
米国籍を持つ者と琉球人以外の本土出身者、米国以外の外国籍を持つ者は非琉球人であった。
一方、「琉球人」とは次のとおり。
それに対し、占領下の住民社会のなかで市民権を付与された「国民」は、 「琉球住民」と呼ばれていた。(p.12)
この区別は戦後(ひょっとして戦争中?)1945年から本土復帰の1972年まで続く。
そして、非琉球人としての「在沖奄美住民」は、
そのほか、在沖奄美住民をはじめとする「非琉球人」は、指紋押なつや在留許可証の常時携帯の強制といった人身管理面だけではなく、参政権や琉球政府職員への就官が認められないなど民立法にお いても差別的な処遇を受け、さらに、金融機関からの融資や日本政府の国費留学からも排除されるなど、様々な市民権が制限されるという困難に直面することになった。 (p.28)
というもので、まぁ、父親は一市民としては認められず苦労したっぽい。
戦後沖縄へ移住した在沖奄美出身者は5万人に上るらしいが、「非琉球人」として扱われ、在留許可証の常時携帯を義務付けられていた。父親もこの「在留許可証明書」が沖縄で生活を営むための頼みの綱だったのだなと思う。
もっとも、父親の同証明書は、論文に掲載されている写真(p.27)と比べると常時携帯の割には保存状態がいいのが不思議である。常時携帯をしていなかったのではないか。

ところで、「半永住」(Semi Permanent Resident)という言葉は、1960年から復帰の1972年まで主に在沖奄美住民者が主なターゲットだったようだ。
単純化すると、数が多くて業務上処理ができなくなったので、1958年の法改正で
2 年毎の登録切替を要する「一時訪問」ではなく、「半永住」(semi permanent resident[S.P.R])資格が認められることになった。(p.31)
のようだ。定住は認めるけど、管理はするよ、ということ。
現在の「在日外国人」に対する扱いに通じるようだ。


復帰直前に実家を建てた時、住宅ローンの名義人は母親で、母親は、特に晩年の父親に対しそのことをなじっていたが、彼には個人としての資質や考え、生き方以外にも、彼が背負っていた時代背景といった事情があったと言うべきだろうなと思う。

一冊の手帳のような「在留許可証」から、昨年書かれたばかりの一つの論文に巡りあい、当時の時代背景を垣間見ることが出来た。
この手帳は父の残した(つまり、引き出しの奥に突っ込んでいた)写真と共にアルバムに張って、未来の誰かが覗けるように残している。

2015/06/18

電波時計@沖縄 (後継機編その2)

電波時計によっては、電波が受信できないことがままある沖縄では、実績のみがモノを言う。
ということで、電波時計が役に立たなくて困っている人に、役に立つかもしれないということで、使用機種をご紹介。

電波時計@沖縄 (後継機編)で紹介した電波時計、セイコーのSQ634S(アマゾン)が動かなくなった。
5年の寿命であった。5年という割にはボロボロ。

後継機種は、同じデバイスを使っていることを期待して、同じメーカ、同じシリーズ、近い型番、似たような機能から、SQ698S(アマゾン)を選択。
湿度計がついていてコンパクトになってその点では満足。
ただ、白のボタンが安っぽくて浮いている気がする。
電波も開封当日は受信できなかったが、1日後にはちゃんと受信した。

左側の木の時計は誠時の Morteau Natural モルトー ナチュラル RW-018NA (アマゾン)というアナログの電波時計である。
2号(♀10才)の木の目覚ましが欲しいという要望に応えたもの。
最初の時刻合わせの時に電波を受信して針がぐるぐる回る様は面白い。

しかし。
多くの目覚まし時計はプラスティッキーで、かといってチープシックでもなく、安っぽくて、意匠デザイン的に惹かれるものはとてもとても少ない、
機能で差別化するのは難しいのだから見た目で勝負するもんだと思うのだが、なんでだろう?

2015/06/16

giroflex33のキャスターを交換 (2回目)

giroflex33の3個のキャスターのウレタン部分が破損というか崩壊し始めてきたので交換した。その備忘録。

部品は前回と同じ
SANWA SUPPLY OAチェア用ウレタンキャスター SNC-CAST
とした。
交換作業は、
  1. マイナスドライバーを本体とキャスターの間に突っ込んで、てこの原理で取り外し
  2. 新しいキャスターを強めに押し込んで完了
5個で5分の作業時間。


前回の交換から3.5年ぶり。
オリジナルは6年持ったから、ちょっと寿命が短い。
紫外線に直接当たるわけでもないし、あ、普段の使用者である私の体重が影響しているのか…。

2015/06/14

ソファのクッションを交換

ソファのクッションが10年も経ち、クッション材のスポンジがヘタってきて座ると座面の板の圧を感じるようになって、ごまかしも効かなくなったので、ロボッツさんに教えてもらったシート屋さんに持ち込みで依頼して交換してもらった。
具体的には座面はクッションとカバーを交換、背もたれはクッションは活かしてカバーのみ交換。

1枚目の画像は、交換前。
カバーの劣化を隠すため、私の素敵な奥様が座面部分のみカバーを縫いつけている。
2枚目の画像は、クッションを預け入れた後のちょっと寂しい姿。
シート屋さんが立て込んでいるというので、ゴールデンウィーク前にクッションを預けて1ヶ月ほどで出来上がり。
子どもたちは朝起きたあとにこのソファで5分ほど2度寝をするので、クッションが無いのは不評であった。
3枚目の画像が交換後。
カバーの生地はカタログから選定したけど、まずまず。
シート屋さんに支払ったお値段はニトリでソファが買えるほどであった。
ニトリが安い理由は何でしょうか。

家族も当たり前のように使っているので、まずはよかった。

2015/06/13

父、個人情報保護法の対象から外れる。

つまり、「生存する個人の情報」は保護の対象だけれど、故人となった個人の情報は保護されない。

父が亡くなった直後に、こめかみに浮き出ている血管を触ってみると硬くて硬くて、もうボロボロだったのだな、と納得した。
透析をすると血圧が危険なまでに下がるのでこれ以上の透析はできない、と言われたのが5/13(水)。透析の中止は腎不全につながり、すなわち死に至る。
その後は、家に帰りたいという本人の希望と病院の勧めもあり、先に書いたが、在宅で看取ることとなった。看護スタッフや在宅緩和ケアの主治医の訪問などで、十日は家にいることが出来た。この期間に髪の毛が黒くなっている不思議に私の素敵な奥様が気づく。
もっとも最期は苦しくなったらしくて、病院に連れて行けというので弟が連れて行き、その二日後に亡くなった。
亡くなる前日に私と弟を呼んでいるとの知らせがあり、仕事を抜けて病院に駆けつけたが、既に痛みを紛れさせる麻酔で意識朦朧としており、声をかけるといきなり「ぱっ」と起きだしてびっくりさせたが、何も言葉を発することはなく、そのまま眠りについたので、結局自分の子どもに何を伝えたかったのはわからずじまい。後にお坊さんが言うには、ただそばに居てほしかっただけなのでは、ということなので、そういうものかも知れないと思うことにした。
当日の早朝、病院から遺体を葬儀社の車へ移動する裏廊下の途中で当直だったっぽい主治医が待っていてくれたのはありがたかった。ただ病院との関わりはこれが最後で、死んでしまうとスッパリと縁が切れるのだな、と当たり前のことを実感した。
父の死に際し、執着も未練もなし、が浮かんだ言葉で、なぜそうなのかは説明しかねる。6年前に敗血症でICUに入った時が最初の覚悟で動揺もあったが心の準備はできていたかもしれない。
画像は、4/18(土)に撮影。この時は、心不全と肺炎で入院中で、そのまま透析中止まで入院していた。

みんな若かった。
家族の誰にとっても幸せな時代。
1974年に母親が撮影したもの。

3枚目の画像は、遺品整理中に引き出しの奥から出てきた漫画「ラーメン大会」。
仲間内でワイワイやっていたのですね。
右下のテレビに「天と地」とあるので、調べてみたら、NHKで1969年に放送されていた大河ドラマに「天と地と」がある。ビデオもない時代なので、その年に書かれたと推測する。
左上の人だけが客観的なのでこの方が作者なのでしょう。
告別式にはその仲間のうちの何人かが来ていたことを香典で知る。
義理ではなしに父のために来てくださり感謝です、という言葉しか湧いてこない。

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